手床の縫い方による構造進化(推測)

明治末から大正初めに製畳機が発明されるまでは当然、畳床も手縫いの畳床でした。手縫い床の製作は重労働なので、製畳機が発明されると急激に、手縫い床は作られなくなりました。
製畳機は手縫い床の掛け縫いを真似た製品なので、其れまで多く作られていた筋縫いや棒縫いの手縫い床の欠点である畝が張る (縫った個所と縫って無い個所の凸凹)事がなく、急激に手縫い床が作られなくなったのも、当然の事かもしれません。

現在のような形の畳床が作られたのは、室町時代からだそうで、部屋の中に畳を敷き詰め、敷居と同じ厚みの床材としての畳の形が、この頃に出来あがったと言われています。

それ以前の平安貴族の生活を著した源氏物語絵巻には、紋縁を付けた厚畳が描かれています。置き畳として部屋の中で、座具や寝具として使われたようです。構造は菰などを何層にも重ねて、厚畳としたようです。この他に菰にイグサや布を縫い付け、丸めたりして持ち運べる厚めの敷物が在り、これらから畳の原型へと進化したと思われます。

資料として畳床が描かれているのは、14世紀の春日権現験記絵巻で、僧が畳を巾に抱えて持ち運ぶ姿が描かれており、畳の裏が菰の横手で現在の畳のような形になっていて、畳縁が裏側まで廻っていて、ワラの芯材に上敷きを取り付けた、構造の畳と思われます。
ワラを縦横に組んで締め込んだ物で、一応畳の様に為っています。しかし形が歪み柔らかそうで、畳床の裏面には縫った糸が描かれておらず、構造的には横手に編んだ裏菰と、縦に編んだ縦菰を結び留めた2段配構造か、もう一段上に横手に編んだ菰を重ねた、3段配構造の「おしまくり床」と呼ばれた畳床なら、縫わないで畳床の形となり、これがが畳床の原型ではと推測します。

おしまくり床
おしまくり床

この頃の畳職は寺社や守護大名など、権力者のお抱えの建築職人集団の中の一部で、建築集団の競争の中で畳を作る技術が進化したと考えると、それまで何世紀にも渡り作られた、おしまくり床が室町時代後半から江戸時代前半までの間に、手縫い床の技術が、ほぼ完成された理由付けになると思います。

畳床の縫い方の初期段階は、「国刺し床」と言われる下配と胴菰の上下を等間隔で縫っただけの、簡単な縫い方から始まったと見るのが妥当でしょう。一本目の縫いと二本目の縫いの上下が交互に為るように縫えば、畝が張る事もありませんが、残念ながら堅く締まった畳になりません。

国刺し床
国刺し床

堅く締まった畳床にする為に、胴菰の上に縦藁を付け縦藁を押さえるように縫い付ける、「棒縫い床」に進んだと見るのに、疑問は無いと思います。

棒縫い床
棒縫い床

堅く締まった畳床になると、新たな問題点が出てきます。畳表に縦藁を縫った個所が、畝のように出ます。この欠点を克服する為に、縫う面全体に上菰(肌菰)を置き、棒縫いと同じ縫い方をする「筋縫い床」と、縫う面全体に藁を斜めに覆い縫う「蓑配り床」が出来たようです。

筋縫い床
筋縫い床

蓑配り床
蓑配り床

筋縫い床と蓑配り床のどちらが早く作られたのかは判りませんが、畝が張らない点と、堅く締める点に重きを置くと、筋縫い床が先に出来たかも知れませんし、上菰を作らない分、蓑配り床が早いかも知れません。コスト面から見ると、上物が筋縫いで、安物が蓑配りでの同時進行かも知れません。

筋縫い床でも年数が経つと、やはり畝が張ってきます。その為、筋縫いと筋縫いの間を更に縫った、「掛け縫い床」が作られるように為りました。

掛け縫い床
掛け縫い床

桂離宮の畳は、掛け縫い床13通りで作られていたそうです。江戸時代の初期には、掛け縫い床は作られていた事になります。江戸後期には、掛け縫い床18通り以上の物まで作られていたそうです。

全国的に作られていたのは、「棒縫い床」と「筋縫い床」です。
「掛け縫い床」は京都・大坂・江戸など、都市部の地域で作られていて、全国的には作られませんでした。
「国刺し床」も九州では作り続けられていたらしく、戦前、我が家の三代目源一が佐賀県に行った時に多く見られたそうです。
「蓑配り床」は北関東や東北地方で作られていて、関東大震災の後には東京にも多く入って来たそうです。
手縫い床の分布を全国的に詳しく調べる事が出来ると、面白い結果が出そうですが、もう無理でしょうか。